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2022.05.03

子どもと「死」について考える

みなさん、こんにちは。気温差が大きい日が続いて体調を崩しやすい季節となりましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。新年度の環境変化も加わり、より一層春バテしやすいですから気を付けて体調管理していきたいところですね。

さて、今回のお話に関して私事で大変恐縮ですが、うちであった出来事をお伝えさせていただこうかと思います。

今年に入って、うちで飼っていたうさぎが亡くなりました。享年9歳。家族一同ショックを受けましたが、一番悲しんだのが当時5歳だった長女。大声をあげて泣いていました。それに感化されて泣いてしまった私。きつく抱きしめて慰め合ったことを今でも思い出します。

その後から子どもたちから「死」に関して質問されることが続きました。私は「生きとし生けるものは全て死にゆくもの」「死後の世界にみな同じところへ行けるんだよ」と教えました。

すると長女は「じゃあママも死んじゃうの?」と。

わたし「そうだよ。いつ死ぬか分かるものではないけどいつかは死んじゃうね。」と。

長女「いやだー!」と大泣き。

人が「死」を受け入れるプロセスは5段階あります。

・第一段階:否認と孤立・・・その事実を否認(逃避)している段階

・第二段階:怒り・・・その事実に対して怒りにとらわれる段階

・第三段階:取り引き・・・その事実に対して回避できないか模索・取引しようとする段階

・第四段階:抑うつ・・・その事実が回避できないことを悟り、悲観・絶望し抑うつとなる段階

・第五段階:受容・・・生命が死んでいくことは自然なことと受容でき、心に平穏が訪れる段階

 

長女は第一段階と第二段階の間にいる印象だなーと看護師的目線でみていました。

そこから徐々に子ども達と「死」に関して話し合いを継続していきます。こちらからアプローチはせず、子ども達からコンタクトがあったときに、向き合ってじっくり話し合うようにしました。

話し合う中で子ども達の会話と感情に変化が出てきました。初期の嫌だという否認から、死んだらダメという怒り、ママが死ぬならわたしも死ぬという取引、死ぬの怖いよという抑うつ。これを行ったり来たりと繰り返しサイクルしていた時期の中で、ある転機が訪れました。

ある日の夜に長女から「死んでも会いに来れるの?」と尋ねてきました。

わたしはピーンときました!休日に車内で度々かけているディズニー映画のDVDがあるのですが、その日の昼間にお出掛けでDVDを流していました。そのDVDには天国に行った父親が主人公の前に現れるシーンがあったのです。

わたしは「来れるよ。死んだ人は残してきた大切な人達をいつでも見守ってるはずだよ。」と返しました。

長女「じゃあママが死んだらみーちゃん(長女)のとこにも会いに来てくれるの?」と。

わたし「もちろん。きっと目には見えないかもしれないけど、必ずそばにいるよ。会いたくなったら、夜にお空を見上げてみて。みーちゃんが一番最初に見つけたお星さまがママだよ。」

長女「お星さまいっぱいあるよ。ママのこと見つけられるかな?」と心配そうに尋ねてきました。

わたし「大丈夫。みーちゃんが一番最初に目についたお星さまがママだから。目につくように一番キラキラしてるから、すぐ見つけられるよ。」

長女「・・そっかー、うん、分かった。ママありがとう!ずっと見守っててね!」

 

この会話を最後に、かれこれ1か月半は死に関して話して来なくなりました。

 

 

普段の生活をしていると、あまり生死に関して深く考える機会は少ないのではないでしょうか。

わたし自身は看護師を続けてきて「死」には多く関わらせていただいたと思います。

いろんな最期を見届けてきました。それはわたしにとってかけがえのない死生観となっています。

子どもたちはまだ幼いので、まだまだ本当の意味での「死」は理解できていないでしょう。理解して自分なりの死生観を持てるようになるまでには成長を待たなくてはなりません。成長と共に日常生活の中で「死と生」を体験し学んでいくことで子どもたちにとっての死生観の基礎となるでしょう。ペットの死や身近な人の死という現実をごまかすことなく、子どもと寄り添って一緒に経験を重ねていけたらと思っています。

そして健全な死生観を育て、自分の命の大切さを知り、周囲の人の命をも大切にできるような子になってくれたらなと願います。

 

ユーティー訪問看護ステーション 看護師 齋藤 三都美